年 代 |
西暦 |
事 項 |
寛文 7年 |
1.667 |
10月22日、都留郡中津森字大奈良(現都留市金井)の佐藤家の二男 |
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として生まれ、幼名を太郎という。 |
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延宝 2年 |
1.674 |
7歳の時、蛍を調べるため、多くの蛍を殺して生と死に疑問をいだき、 |
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同村富春山桂林寺の 霽外和尚(湘外祖景和尚か)を訪ねて生死を |
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問い、ついに童髪を落として同村曹洞宗千眼山江西院の一山徹公 |
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禅師について仏門に入る。 「ぽつぽつと暗に穴あく蛍かな」 |
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元禄元年 |
1.688 |
21歳の時、加賀の大乗寺の徳翁良高禅師について修行に入る。 |
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元禄 2年 |
1.689 |
禅師22歳の頃、加賀(石川県)大乗寺の徳翁良高禅師について参禅 |
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修行中、曹洞宗を代表して黄檗宗の高僧千丈和尚と禅問答をし、 |
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和尚を勘破して宇治の黄檗宗万福寺から「曹洞禅滅却」の額を持ち帰 |
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ったという有名な話がある。 |
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「生れおち 祖暁の二字は 知らねども |
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梅の小枝に うぐいすは鳴く」 |
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大乗寺の後 |
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不明 |
播磨(兵庫県)竜門寺に盤珪禅師を訪ねて臨済禅を学ぶ。 |
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不明 |
嵯峨(京都)の直指庵の独照禅師について黄檗禅を学ぶ。 |
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不明 |
尾張(愛知県)黄檗宗長福治の千丈禅師のもとで参禅した。 |
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元禄 5年 |
1.692 |
得度の師である金井江西院の一山徹公禅師が老齢のため、孝養を |
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つくす目的で都留郡に帰る。祖暁禅師25歳 |
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元禄 7年 |
1694 |
上谷村(都留市上谷)曹洞宗大道(龍)山法泉寺の住職(同寺中興 |
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の祖)となる。祖暁禅師27歳 |
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甲斐国志に「大道(後に大龍)山法泉寺上谷村8世元禄7年申戌天厳 |
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祖暁入院ス」とある。 (入院とは寺に入る事) |
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元禄12年 |
1.699 |
4月24日、法泉寺 地蔵菩薩(かゞめや地蔵)の開眼供養をする。 |
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甲斐国志に「元禄十二年己卯年4月開眼ノ掲ニ言ウ、汝元来 |
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大幡山ノ石、我ハ是レ久遠実成ノ仏、曲窮ヤ地蔵曲窮ヤ地蔵ト、 |
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是レヨリ地像少シクカガメリト言ヒ伝フ」とある。 |
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元禄12年、今から312年前 祖暁禅師が新しく十王堂と石地蔵 |
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大小二体を造ることとなり石工に石地蔵を依頼しました。 |
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石工は近くの大幡山から石を運び精魂込め見事な一体のお地蔵 |
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さんを刻みあげました。 |
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ところが、いよいよ明日ご開眼という4月24日、石地蔵さん |
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を蔵堂へ運んできた石工の棟梁は、突然顔色を変え頭を抱え込んで |
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しまいました。たまたま勧進から帰ってきた、祖暁さんがその様子に |
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驚き 「棟梁如何いたした」 と尋ねると、棟梁はきまり悪そうに、 |
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祖暁さま、えらいことしてしまいました、お地蔵様がせっかく |
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の厨子に納まりません。 |
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祖暁さんは、何、寸法違いを致したのかと尋ねました。 |
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石工の棟梁は何とも申し訳ございませんが、お地蔵さんのほうが |
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三寸ばかりお背が高うございました。 |
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これではお地蔵さんを刻み直すか、厨子を作り直すしか方法が |
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ございませんと話ました。 |
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祖暁さんは、そんな事をしたら明日のご開眼に間に合う筈がない、 |
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まあよい私に任せなさい。ちょうど良い機会じゃ、 |
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お地蔵さんのご利益を試してみようと、祖暁さまはできたばかりの |
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石地蔵の前に座ると、 |
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汝は大幡山の石ころにすぎぬ、それを拙者が、衆生の成仏を願って |
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仮に菩薩のお姿に刻み申しただけじゃ、 厨子に納まらぬとあれば、 |
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明日の開眼は不可能、開眼出来ねば、汝はただの石ころゆえ、 |
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また元の山へ捨て去ってしまうぞ、それとも身をかがめて、厨子に納ま |
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るか、と話しかけましたところ、石地蔵さんは祖暁さまの言葉に恐れいっ |
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たのか、深いシワが現れ頭が下がり、難無く厨子に納まりました。 |
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以来、このお地蔵さんを「かゞめや地蔵」と呼ばれるようになりました。 |
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もう一つの小さい方の石地蔵さんは厄除地蔵さんです。 |
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禅師が「耐え忍ぶ」ということが、人間の生活に如何に大切であるかを |
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論された証しとして、都留市上谷大幡の安田家所蔵の禅師が揮毫した |
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掛け軸に、「忍為レル徳不レ可乃ニ持戒苦行」とあることでも知られ |
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る。 |
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元禄13年 |
1.700 |
33歳の時、江戸に赴き、徳翁良高禅師より印可(弟子に奥義を授ける) |
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をうける。 |
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宝永 2年 |
1.705 |
大龍山法泉寺の萬霊等(306年前)を建立する。 |
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萬霊等には祖暁禅師の直筆で正面に 「萬霊等」 |
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左側面に 「大龍山法泉禅寺現住天厳祖暁叟大立之者也」 |
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裏側に 「寳永二乙酉年八月彼岸日」 |
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上の方に文字があったと思える、転倒した際に破損した。 |
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破損の部分に光の上の部分()が薄ら読める文字がある。 |
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右側には、「萬・雨・竹」と刻まれている。 |
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「雨・竹」については、種々議論を生んでいるが後世益々寺運の隆昌 |
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を期して彫り足させることが出来るとの伝承がある。 |
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一方左側の法泉寺の泉と寺の間に禅の字があり、祖暁禅師が多くの |
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有名なお寺で禅の修行を実践して来たことを思えば、このお寺は禅寺 |
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であると強調したかったと考えられ、半分だけ書かれた「雨 竹」は |
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萬霊等を見る人に禅問答でどう読むか質問をしていると考えられる。 |
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いずれにしても自地平等すべての精霊を供養することの大切さを |
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教えるものです。 |
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文献がないので「萬・雨・竹」は祖暁禅師のみが知るところとなってい |
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る。 306年前の出来事でした。 |
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宝永 3年 |
1.706 |
師の席を継いで江西院(現在廃寺)の住職となる。 |
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在住中は、曹洞禅を高揚して一般大衆に信仰の道を説いて教化に |
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務めました。 |
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又他方寺院の住職や、路行く雲水に対しては、いつも竹の棒を担って |
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街頭に立ち問答を仕掛けるので、僧侶は縮みあがったとの事です。 |
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江西院、退院の偈 |
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六月ノ閑夢酬ルニ足ラズ |
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熱処忘レ難シ是レ何事 |
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忽チ望ム相陽ノ華厳山 |
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還タ憶フ江西湖南ノ月 |
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正徳元年 |
1.711 |
秋、相模(神奈川県)愛甲郡萩野村松石寺17世住職として転任 |
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正徳 4年 |
1.714 |
駿河(静岡県)阿部郡領主本多信門公の招きに応じ、 秀道院を開山 |
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となる。 |
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藁科群字深谷阿部川下流の護岸、水田開発事業の心のよりどころ |
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となる。今に祖暁新田の名が残る。 |
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享保 8年 |
1.723 |
8月、35万石の領主井伊家7代直惟の招きに応じ、信門の配慮もあり、 |
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井伊家菩提寺彦根(滋賀県)清凉寺の住職となる。 |
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居住3年、享保11年3月藩主直惟公と意見が合わなかったと言われる。 |
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清凉寺を去るとき伊吹山の辺を過ぎるときに詠んだ句 |
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「伊吹山いつ来て見ても伊吹山 甲斐の祖暁は是れ見てくれい」 |
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享保11年 |
1.726 |
3月清凉寺を退去し秀道院に戻る。 |
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享保11年 |
1.726 |
春、都留郡法泉寺に帰り、大衆を教化したが病気のため已む無く |
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深谷に戻る |
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享保16年 |
1.731 |
原因不詳の病気のため深谷に戻る。 |
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11月7日秀道院で65歳で入寂する。 |
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秀道院の禅師の位牌に「当院開山天厳祖暁大和尚禅師」とある。 |
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秀道院には祖暁禅師の木像と祖暁禅師画像・篆刻「光」がある |
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遺偈 |
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65年徒成悪辣 今日消尽不猵界蔵 |
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(65年徒ニ悪辣ヲ成ス 今日消エ尽ス猵界蔵レズ) |
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詩偈 |
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幾たびか打着に逢うて旧瘡斑たり |
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往時を追憶すれば毛骨寒し |
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快活は当に痛処より得べし |
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即今翻って恨む棒頭の寛なりしことを |
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(幾たびか叩き抜かれることによって出来た古傷が、まだら模様に |
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なって、いまだに残っている。 |
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しかし、現在の快活は、正に、その痛い処から得たものだ。 |
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今、ひるがえって思うに、恨み節が出るほど残念だ。惜しいことに、 |
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当時の正師の打つ棒は、今にして思えば非常にゆるやかなもの |
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であった。 |
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もし、もっともっと激しく叩きのめされていたならば、現在の快活は、 |
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さらに、素晴らしいものになっていたであろうに。) |
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晩年の法話 |
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「今日実業の上、医術陰陽兵法の極意までも縦横に説示せん、一々 |
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問い将ち来れ、若し毛氂(いささかも)も遅疑に渡り、渋滞するあらば我 |
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大妄語の人なり。 |
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又我神儒仏の至理を談じて錯誤なきを期す。吾答処該の道の要義に |
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中らずんば吾先ず其妄語罪随獄の報あらん、云々」 |